名付けること、生まれること

2016/08/29

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文章書いてオッケー!なサインを自分に出して10日余り。ようやく場を与えられた感もあり気分がラク。……な反面、頭の中に日々浮かんでは消えるどのテーマを書き出して残そうか、深化させようかと、またいつの間にか吟味してた自分に気付いて、執筆ストップにストップ。

 

思いつくアイデアをズラリ並べ、「この案でいこう!」とデザインを決めて着手すること同じで、頭の中に書きたい事がズラリ並んで、「さぁどれから書く?」と問うていた状態だったみたい。そして答えは出ないという…。

 

ふぅ、ラフスケッチを書く位の気楽さで文章を綴りたいわぁ。
もっと喋るようにも書きたいし。
書く事決めないまま書いたりしたい。
とにかく書くか。書いて思い出そ。よし、書こう書こう。

 

今日は一応テーマあるよ。タイトルの通り「名付け」です。うん、「ネーミング」ってやつです。何でこのテーマ?と突っ込まれると、どうにもこうにも個人的な回答しか出来ません。

大体理由は3つ位あって、ただいま第三子の名前を絶賛考案中で、頭の片隅にネーミングゾーンが出来ているのが理由1。
店舗の名前とか商品名とか企画名とか、ネーミングからデザイン提案する事自分多いなぁと思っていた事が理由2。
そして自分でも結構名前を付けるのが得意だし、好きだと思ってるのが理由3です。

 

言葉によって名前は作られる。そして名前がつくと存在することになる。
つまりは、言葉によって存在は作られる。

現実は事実として存在する事だとすると、言葉は現実を作れるという事。

 

当たり前のようで、あらためて考えるとなんだかすごい事だなぁと思うのです。まだこの世に存在していないモノ(便せん的にモノにしていますが、コトでもヒトでも何でもOKね)を知覚する為、認識しやすくする為、区別する為に、コレが「A」です。このコトを「B」と呼びましょう。このヒトを「C」と呼ぶことにします。とすることで始めて「A」は誕生し、「B」は始まり、「C」は出生する。聖書の引用を出すまでもなく、思考のエネルギーが言葉を形づくり、存在に意味を持たせるということ。そして現実を作るということ。

「A」を思うまでは、その世界には「A」は無かったんです。しかし、「A」のある世界が現実になってしまう。うわぁ。

 

言葉の利点は、ほどよく具体性を帯びつつも、視覚的では無いという事。(文字を読むという意味では視覚的ですが)
そして、物理的に視認させなくても、例えば聴覚としてもイメージを創出できるという事。
それは例えば「赤い青」とか「四角い丸」とかは言葉では書けるけど、どんな色や形なのかは千差万別で物理的に不可能であること。
例えば「C」さんの姿を見たことが無くても、「C−−!こっちーー!」とうっかり耳に入ってくるだけで「C」という人が居るんだなぁと認識してしまう事。
…いや、これ話が膨らみ過ぎるな。1回で終わらんわ。

え〜〜〜〜と、
続こう…。(つづく)