デザインが向く方向について1

2014/05/07

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ゴールデンウィークは、最後(?)となるゲストとしての雪浦ウィークへ。目的は参加者側からの雪浦の印象をあらためて感じる為、出向けていない場所や人を知る為、そして記録として残す為(あ、最後の役割は全く果たせてない)例えば写真のガールアグリ堀田さんの畑について。10種類以上の無農薬・有機栽培の季節野菜を自分で収穫→箱に詰め込む→持って帰る。という単純なシステムなんだけど、畑のそばを流れ落ちる山水もここち良く、小屋はカフェへ変身。お茶を飲みつつ収穫を眺め、家族の姿を追いかけてみたり、知人と話し込んだり……と、なんというか「そのままの日常」を出すだけで「良い」という状態。人も多いし車も多い。逆に言い換えればこの土地に置ける「自然な日常」は、既に人々が駆けつけたくなるほどの「非日常」となってしまっている現実。「6分間の伝説のスピーチ」で有名な環境活動家のセヴァン・カリス=スズキさんは、高らかに「21世紀に置ける最も先進的な行動とは、食の生産地に近づくことと小さなコミュニティへの回帰である」とインタビューで答えていた。そう、時代、パラダイムは、シフトしたように思う。農や地域(というジャンル)にデザイナーが入り込む流れが加速していくのは何故か。国による政策の強化(お金の投下)というだけでなく、人々の意識がそこに向けられているからだと僕は感じる。人間、欲しいものに意識は向く、足りないものにも意識は向く。デザインはその人々の意識を察知するし、事実察知した。自然、安心な農産物、小さなつながり(地域・コミュニティー)。時代はこれらを欲している。また刻一刻と失ってもいる。何故それらが失われたのか認識もせず、そのテーマを一過性のトレンドとしてデザイナーが技術任せで装飾してしまうだけの動きに僕はあやうさを感じるし、自分にも戒めている。そのままで美味しい農産物を可愛く見せる必要がどこにあるだろう。大地に生まれたものから土の匂いまで消し去る必要は無いと思う。人はその装飾やシンボル、イメージに対価を払い、本来の価値を認識しないままに受け取って去っていく。これではデザインの誤った運用だ。僕はビル・モリソンさんが提唱するパーマカルチャー(permanent 永久の agriculture 農業 culture 文化 の造語)の考えをどうにか汲めないかと、グラフィックデザインにおけるレイアウトの様に、「適切な関係にもとづく互恵的な集合体づくり」という、文字で表すとなんだか大げさな概念を、農や地域づくりに活かそうとトライしています。水が上から下に流れるように。太陽が同じ方角から出るように。自然が持つそのままの力や、人や土地がすでに持っている資源を活かせればというような姿勢で。そうそう、雪浦移住も具体的に進んでいってます。お陰様で住む家も見つかりました(神様!)。あぁ良かったー (つづく)